シュヴァーベン・スイス関連 △戻る

◎シュヴァーベン・スイス
 スイスという国は1291年8月1日にウーリ、シュヴィーツ、ニートヴァルデンの三州が「永久同盟」を締結したことをもって成立した、と広く考えられているが、この時点で現在のスイスの中心都市であるベルン、チューリヒ、ジュネーヴなどはその中になく現在の国境が確定するのにはまだ時間を要することになる。スイスという国名はそもそもシュヴィーツ州に由来するもので、現在スイスが占める領域は中世においてはシュヴァーベン(スワビア)地方の一部に過ぎなかった。

 ローマ帝国時代、アルプス北麓には既に北方の前線基地として植民市が建設されていた。ローマ滅亡後は、東ゴートやブルグントの支配を経て、フランク王国・神聖ローマ帝国の支配下に入った。帝国の下では、現在のスイス東部はシュヴァーベン公国、西部はブルグンド王国に属し、この時既に現在のドイツ語地域、フランス語地域の枠組みが出来上がっていた。参考地図

 11世紀後半の叙任権闘争でドイツ諸侯が国王派と教皇派とに二分して争った時、教皇派はドイツ国王ハインリヒ4世(国王在位:1056〜1106)の妹婿でラインフェルデン家のシュヴァーベン公ルドルフ(公在位:1057〜1080)を対立国王に担いだ。この時ハインリヒはルドルフから公位を剥奪し、代わりに与えたのが南ドイツの諸侯のシュタウフェン家のフリードリヒ(皇帝フリードリヒ・バルバロッサの祖父)だった。シュタウフェン家は以後、帝国の政治の表舞台に立つことになる。一方、教皇派は1080年のルドルフの戦死と十年後のラインフェルデン家の断絶により、ラインフェルデン家の遺領を継いだツェーリング家のベルトルトが中心人物となったが、国内に広がった厭戦気分により1098年マインツにて講和を結んだ。結果、シュヴァーベン公位はシュタウフェン家が譲り受け、ツェーリンゲン家はスイスのライン川左岸地域で公を名乗ることが認められ、スイス地域最大の領主となった。

 ツェーリンゲン公の支配の下、各地に都市が作られ、例えば1120年にフライブルク(現:ドイツ領)、1170〜80年頃にムルテン、1191年にベルンが建設された。また、1173年頃チューリヒの支配権も手に入れ、都市建設を推進した。これらはシュタウフェン家の勢力伸張に対抗した拠点作りのためであったが、1218年に男系相続人が絶えて所領は解体、ベルン・チューリヒなどは帝国都市となり、所領の多くはトゥールガウ伯のキーブルク家に相続された。

 キーブルク家も同様に都市建設を行ったが、1264年に断絶、大半の所領はアールガウのハプスブルク家に受け継がれた。当主ルドルフはシュタウフェン家に忠誠を誓い続けて勢力を拡大し、キーブルク家遺領の獲得によりアルザスから中央スイスに至るまとまった領土を確保した。ルードルフがドイツ諸侯の思惑もあってドイツ国王に選出されルドルフ1世となった後は、同家はオーストリア大公オタカル(オットカール)を破ってオーストリアを手に入れ、後のオーストリア帝国の基礎を築いた。

 強大化するハプスブルク家に脅威を感じた中央スイスの三地域が締結したのが先述の「永久同盟」であり、この同盟が核となって、次第に他の地域とも同様の同盟が結ばれ、現在のスイスの形成へと向かっていくこととなった。


◎スイス諸侯
●ツェーリング家
 11世紀末から1218年まで、スイスに所領を持つ。初代ツェーリンゲン公ベルトルト(当主在位:1100〜1111)以降、ベルトルト3世(当主在位:1113〜1122)、コンラート1世(当主在位:1122〜1152)、ベルトルト4世(当主在位:1152〜1186)、ベルトルト5世(当主在位:1186〜1218)と続くが男系相続人が絶えて所領は解体した。ただ、家系が絶えたわけではなく、バーデン辺境伯となった家は現代まで続いている。
参考URL http://nekhet.ddo.jp/people/zahringen01.html
       http://nekhet.ddo.jp/people/zahringen02.html

●キーブルク家
 トゥールガウ伯(トゥールガウはボーデン湖南岸の地域名)。1264年に断絶。
参考URL http://nekhet.ddo.jp/people/etc-deutschen.html


◎その他人物
●ウィリアム・テル(ヴィルヘルム・テル)
 スイスの伝説的人物で、ウーリの住人。ハプスブルク家の代官ヘルマン・ゲスラーに対する不敬から、実の息子の頭上に乗せた林檎を弓で射抜くよう命令されるが、見事射抜く。その後彼はゲスラーに捕らえられるも、逃走しゲスラーを射殺、これを契機に民衆が蜂起し、ハプスブルク家を追放した、とされている。またその後日談では、1354年、嵐で氾濫した川で溺れている子供を助けようとして本人は力尽き濁流に消えたという。
 テルの伝説は、15世紀にはスイスで本になっており、以後史実に基づく話とされた。しかし、19世紀に入って古文書を調査した結果、テルが存在したという証拠は何一つ見つからなかったという。

●リューディガー・マネッセ  1252〜1304
 チューリヒの騎士。チューリヒの市参事会員として市政の中枢に立つと共に、『マネッセ歌謡写本』(『大ハイデルベルク歌謡写本』とも)という中世ドイツ語による恋愛歌謡(ミンネザング)の集成を行った。


使用した資料は、
物語 スイスの歴史   中公新書
ベネルクス・スイス史    山川出版社